昭和49年09月27日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感に適うたのじゃ。神の機感に適わぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす事があり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫を絶ってしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」
神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。いわゆる今の言葉で言うと、タイミングを外してしまうという事です。私はあの此の辺の所の事をお繰り合せと言うんだと思うです。いわゆる私共の日々の生活の中に素晴らしい調子が出て来るというか、タイミングが出来て来る。素晴らしいタイミングの中に、一日を終わらせて頂く。
昨夜私は、夕食の時にお神酒を頂き過ぎてから、眠ってしもうて丁度八時の御祈念を御無礼してしまった。丁度十一時半頃ここへ又出て参りました。丁度そこへもう本当に駆け込みの様にして、お願いに来た方があった。それこそ素晴らしいタイミングである。私がもし、八時の御祈念に出ておったら、ここへ出て来る事もなかっただろう。そうしとりましたら今度は、昨日は土居地区の共励会でしたから、昨日そうしとりましたから、十二時になりました。皆さんがいっぱい帰って参りました。
それで土居地区の共励会の事も聞かせてもろうて、休ましてもらったんですけど、私もおかげを頂くなと思うし、お願いに来た者も今の時間に親先生がおって頂いた。しかも紋付袴をつけて、ここで御祈念して御座ったというのですから、もうおかげ頂いたと思うんです。又おかげになるんです。そう言うてです。私はこのタイミングがある。素晴らしい中に日々生活さして頂いてです。神様をいよいよ身近に感ずる事が出来るし、又おかげも頂ける事が出来る。
これはあのタイミングが素晴らしいと同時に、今度は反対に外れて行くと云う事もあります。その外れ具合が良うなからにゃいけん。そこに又一つのリズム感が出て来る。例えば「茶壷」という踊りがあります。長唄是は二人舞い二人で舞うんですけども、二人がずっと調子を外して踊る。最後まで踊るというのですから大変難しいです。例えば三味線がチンといったら、足もやはりトンと打たなければいかん所をチンと打った。
その後にトンと出すと云った様なね、その辺の素晴らしい、言わば違ったタイミングを外しての、そう云う所もあります。それも矢張り素晴らしいと思うです。例えて申しますと、自動車で走って行きよります。もうそれは素晴らしい素晴らしい神様の。この頃から信徒会長が、自動車を買いました時にもう夕方でしたから、お払いをして頂きたいと持って来た時に、私が乗せてもらいました。そして田主丸まで行きました。私を乗せて行きなさい。そして行って帰るまで、ゴー・ストップが幾つあるでしょうか。
いわゆる赤青のシグナル。もう行きも帰りも緑ばっかりで帰って来ました。そして帰ってからね「素晴らしかろうが。秋永先生これだけでもう、言うならば事故などのあるはずのない程しの、言うならばお払いの効果があったと思わにゃいけんね。」と申しました事です。もの自信が付くんですね。こういう間違いのない働きの中に、今日のお払いを受けたんだと云う事になるです。又、それとは反対の事もある。行けばどこまで行っても赤だ。そういう時に狂うちゃいけん。
やっぱり赤なら赤でなけりゃいけん。そういう時にです神様の間違いなさを、本当に感ずるです。それこそ茶壷じゃないけれども、一足遅れでぱっぱっとこう。それも素晴らしい。勿論そこにはある意味においての反省がなされております。はっきり分からせてもらう反省。はっきりはぁあそこん所でタイミングを外したなと。あそこで例えば狂っておったなと云う事を気付かせてもらう。だから次の改まりの、言うならば足掛りと云う事になって来るのである。
それこそ置いたものを取って行く様にと申します。そういうおかげの頂けれる、私は信心をしなければいけない。昨日、末永先生の従兄弟になりますが誠さん。古屋誠さん。大学を卒業して飛行機の操縦士の試験を受けておった。それこそ大変難しい。一回目パスした。二回目パスした。三回目パスした。四回目パスした。もうこのまま行くともう確かにおかげ頂くだろうと云う所まで行った。しかもその紹介してくれた方も良いし、もう自分の願いが適うと思うた。所が一番最後になってからはねられた。
で昨日残念だったと云う訳ですけれどもね、勿論神様にお願いしてからの事ですから、まあよりおかげを頂いたら良い。より有難いおかげを下さる事の為の、というだけれども、神様の御守護を受けてです。間違いのない働きの中に四回の試験がパスした事だけは、しっかりお礼を申し上げねばいかんと話した事でした。私は樺目時代に親教会三井教会に歩いてお参りする。神様は傘はいらんと仰るから傘を持たずに出かける。するとあの樺目を少し出てから、勿体島に行かん所からボッポツと降り出した。
そういう時に神様嘘を仰ったとは思わないです。こちらの頂き方が間違っとったんです。けれどももう言うならば樺目から勿体島まで、おかげで濡れんで済んだというお礼を言いながら、濡れながらお参りをする。こちらが頂き違いがなからなければ、濡れんで済むものを、こちらの頂き違いがそういう言うならば、勿体島から先を濡れなければならなかった。そういう生き方で参りますとこの次にはね、もう言うならば善導寺のバス停留場までくらいは、今度は次に濡れんで済む様なおかげを頂かれる。
そりゃもう教会がそこまで見えとるのに濡れたとは思わない。おかげでここまではおかげを頂いてきた事。おかげが伸びておる事を、やっぱりお礼を申し上げる。次にはもう教会の入口で、サーッと降り出した。まあ神様はちょっとばっかり、こう支えとってくれれば良いものに、との不足ではなくてあぁおかげ頂いたね。ここまでおかげ頂いてと、例えば言う様な生き方です。その次にはそれこそ教会に着いた途端に、お湿りがありだしたと言う様なおかげを頂く時にです。矢張り稽古なんです。
そこに素晴らしいタイミング。もうそれこそ私が歩く所の二、三軒後ろからずっとお湿りがあって来るんです。教会に入り込む途端にだぁっと降ると云った様な、私は体験も持っとる。その時慌てる事もいらん。走る事もいらん丁度私の後ろからこうやった降って来る。まあだからそういう稽古です。その稽古さして頂くうちにお礼もありゃ改まりもあると云う事になるのです。愈々だからそれこそ一分一秒間違いのない働きと。
「親先生。明日どうでも百万円いりますよ。」と総代さんがそう言います。けれども今銀行にお金はありませんとこう言う。神様にお願いしとかじゃ。もうそれこそ、思い掛けない人が、百万円お供え持って来るです。これは総代の経理をしている久富さんが、何時も体験する事です。今度だけは難しかろう。今度だけは難しかろうと思うらしいです。けれども何時もの事ながら、恐れ入ってしまうと言うんです。
そういう素晴らしいタイミングの中にです。例えばそれと反対の一足遅れの時もありますよ。けどもそういう神様が奏でて下さる一つのリズムに乗って行く様な生き方をです。私は身に付ける事。これならばです。愈々私はこのままを受け渡して行けば良い。こういう生き方を身に付けてさえ行けば、こう云うおかげを頂けるぞと云う所に、皆が願って止まない所の、無事達者で、子孫も続き、身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげが受けられると。そういう信心を残しとかなければいけないと私は思うです。
だからそういう素晴らしいタイミングの中にです。互い違いにならない様なおかげの頂ける信心とは、どういう信心をさして頂いたら良いかと云う事になるのです。神のおかげを知らぬから、互い違いになる。言うなら神様の働きをです。知らぬから頭では分かっとる。けれども実際は知らない。神のおかげを知らぬから、互い違いになる。神のおかげを知らぬから、神の大恩を知ればとこう仰る。
金光様からお書き下げを頂いて、大きな軸に「神の大恩」と書いてあるのを頂いた。素晴らしい筆跡で神の大恩と。神の大恩と云う事は限りがない事。私はそういう意味でですね。もう私の知っている限りの方で、一番神の大恩を感得しておられたというのは、私は甘木の初代だと思うですね。それこそ枯れ葉枯れ枝一本一枚でも、お粗末になさらなかった。神のおかげを知り神の大恩を知っておられる。神様の御物である事を知っておられる。だからあれ程しの大徳を受けられたと私は思うです。
私は神の大恩と云う事に付いては、もうこの先生の右に出る者はいないと私は思います。だからあの大徳を受けられあのう言うならば、甘木教会があると思うんです。それを言うならば受け渡しておられる。今の親先生なんかお風呂に入られる時に、湯の蓋半分は残しておられると云う事です。先代が残しておられる信心を。そしてそれを頂き貫こうとしておられる姿勢だと思うです。ただ頭で分かっただけでは駄目です。
それこそ履物でも少し歩かれたら、右左を変えられる。タオルでもしっかり絞られる様な事はない。それだけ弱くそれだけ早く破れると言う様にです。そうしなければおられなかった所に、甘木の信心があると思うです。それは神の大恩を知っておられたからですからです、だから先生の周辺には素晴らしい、言うならばタイミングが生れた事であろう、想像が出来ます。
私がこうしておかげ頂いて、素晴らしいタイミングの中に、日々お繰り合せを頂いておるか。私はどう云う訳、そう云うおかげを頂けるか。私は段々神の大恩が解って来た。神様の御心がよう分かって来た。解らんなりじゃったけれども、それが段々実感として分かって来る様になって来た。そしてなら甘木の初代です。それこそ一切を神様の大恩のこもっておるもの、御物として押し頂かれた様にです。私は全ての事にです。事柄の上に御の字をつける様な信心生活が、段々出来る様に成って来たからだと思うです。
いわゆる御事柄です。いかに神様を麗々しゅうお祭りをしいかに尊いの有難いと言うても、神様の御働きそのものをお粗末にする様な事では、おかげになりません。大坪総一郎私の上に起きて来る御事柄をです。神様が、私に向けて下さる事柄として頂く時に、御の字を付けねばおられない。それは損になる事もあれば、痛い痒い思いをする事もあるけれども、神様が下さる物として頂きますから、御の字を付けなければおられない。それをここでは、成り行きを大切にすると云う事。
昨日研修会が終わりましてから、茶の間に下がっておりました。上野先生の学院の一緒の大分から見えておられます、まあー年増の先生でいらっしゃる方が参加しておられますが、丁度あそこの前を通り合せられたから、「まっこちらにお入りなさらんか。」と言うて、色々お話をした事でした。茶の間に茄子の軸が掛かってる。それに私が桟を書いている。その話をさしてもろうた。茄子というお知らせは、ここでは安心という。言うならば何時も安心の大みかげを頂けておると云う事。
これは私が二十数年前に、千足の古賀さんですがね、元薬局をしておられた。あちらにお話に参りました時に、一晩泊りで、お話をさせてもらった。明くる朝、朝の御祈念を終わらせて頂きましたら、前におられましたお婆ちゃんです。もう亡くなられたでしょうけれどもが、「大坪先生これを一つ拝んでみて下さい。これはもう私の方の家宝で御座います。」と言うて、白扇を持って見えた。白扇かと思うてこう開いたら、真ん中に小さい字で「真の信心」と書いてある。
三代金光様の御筆跡である。金光様にお願いをして「何か一筆書いて頂きたい。」と言うてお願いした所が「真の信心」と書いて下さった。「真の信心」「真の信心」と言うけれども、どこがどこまでが信心やら真の信心やら、中々解りませんけれども矢張り求める所は矢張り真の信心なのです。私はその白扇を開いてそして神様にこの真の信心とはどう云う事でありましょうか。とお伺いしながら御祈念さしてもらいよったら、それこそ三代金光様の声色でね、まだ御在世の頃ですから二十年余り前の話。
真の信心とは「安心のおかげを受ける事であります」と言うお言葉を頂いた。真の信心とは「安心のおかげを頂く事であります」と。成程真の信心を求めて行きゃ必ずおかげが頂かれる。真の信心をさせてもらえば、もう必ずおかげが受けられる。真のおかげが、その真のおかげというのは、どう云う事かというと只今申します様に、素晴らしいタイミングが生れて来る。人間の幸福の条件のすべてとでも申しましょうか。それが適うてくる。ここにあります様に互い違いになって来ない。
財産と人間と言うならば、達者とが適うて来る。だからそれをそのまま、子にも孫にも伝えて行かねばならない。そしてそれが愈々代勝りに大きくなって行かねばならない為にはです。愈々他の事は出来んでも良いから、これだけは頂き貫かねばいけないと。例えば御物であり、又は御事柄であるという信心をです。受け渡しとしとかなければいけないというのであります。人間と身代と達者。言うならば貧乏のない世界。争いのない世界。病気のない世界。
教祖はその事を、人間と身代と達者と言うておられます。そこん所を私は貧乏のない世界。病気のない世界。争いのない世界と言っておる。人間が出来れば争いの起こるはずがありません。問題がもう問題でなくなって来るです。人間が出来てくると。いわゆる身代。いわゆる貧乏のない世界達者。いわゆる病気のない世界。それをね現わしていけれる道なんです。金光様の御信心は。私は思うんですけれども、もう教祖様は絶対嘘の事は教えてはおられないと云う事なんです。
ですから本当にそれを、私共が実証していく。教祖様の教えを守って行くと、こういうおかげを受けられるというその実証を、あかしを立てて行くという生活。それには人が付いて来ねばおられないと思うです。話は前後しましたけれどもいわゆるその、昨日大分の先生にお話申しました様に、そういう茄子の絵に私は書いておる讃の中にです。自然に溶け込むと云う事は、自然を生かす事でありますと書いてある。自然に溶け込んでいくと云う事は、自然を生かす事になるのです。
自然が生きて来ると云う事は、大変な事なんですよ。言うならば何時も天地金乃神様が、バックだという。しかも金光大神の御取次に従って、そこん所の私共、天地金乃神との交流が、何時も絶えずあっていると云う事なんです。だから成程此の様な素晴らしいタイミングも、又、生れんと云う事が分かります。神のおかげを知らぬから、神の大恩を知ればと教えておられる。私共がね頭で分かっている様ですけれども、分かっていない証拠に御物としても頂けないし、御事柄としても頂けない。
その心掛けの所をです甘木は例えばお金。当時一円の金を使うでも百円の金を使う思いと仰せられたそうですね。又は事神様の事にです百円のお金を使う時には、それこそ一円の金を使う所謂もっとでしょうね。実を言うたらもうそれこそそこには一円もなからねば、神様の御物ですからそうでしょう。ただ表現に神の事に言うなら、百円を使う時には、一円の金を使う様な思いともう惜しげ悪しげも全然ありませんと云う事なのです。自分の物買う時には一万円も使うてから、神様のお供えの時には千円を使う。
そげな事でおかげの頂ける筈がない。そしていかに神様を有難そうに言うておっても、それは嘘の有難さです。だからおかげも嘘になるです。神様をいかに麗々しゅうお祭りしても神様の御働きその物をです。大切にせず尊ばずしては、私は神様の御働き掛けて下さる。御事柄としても頂けないし、又は御物としても頂けれん。そういう一つ一つの体験がです。云わば間違いのない神の大恩の中に、又神のおかげの中にある実感。そこに信心の喜び。そういう信心を、私は真の信心だと思うです。
「信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ。」と。信心の道という信心と云う事を真心(まごころ)と書いてあります。言うならば、真の道を末の末まで伝えなければならんのですけれども、真心と違ったものを伝え様とするから伝わらんのだ。真心と云う事は。そこの応接間の前に、私が書いたものを彫物にしてお供えした人がある。あれには、「天真地心」と書いてある。天の真地の心そして「天真地心」と読ませてある。神様の働きその物が真なのだ。それを言うならば地の心で受けて受けて受ぬくと言う事なのだ。地の心。それこそ大地の心。
黙って受けて受けて受ぬくと云う事なのだ。それが地の心。神様が下さるもの。その一切が働きそのものが真なのだ。それをだから私共が真で受けると言う事は、地の心で受けると云う事が真なんだ。してみると御物として頂いたり、御事柄として受けると云う事が、いかに真の信心かと云う事が分かるでしょう。だから真のおかげが現われるのです。神の基幹に適うた氏子とはね、それは神様から御覧になる私共ですから、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりませんけれども、せめてここだけは頂き抜きたい。
ここだけは頂き尽くしたい。そういう生き方の人の上にです。神の基幹に適うたと同じおかげを、又は神様の御信用を下さると思うです。お互い無事達者で子孫も続き身代もでき、一年勝りのおかげを願わくば頂きたい。その為には先ずは神の恩を知らなければならない。その為には神のおかげを知らなければならない。そこで手立てとしてです。本気で一つ御物としての頂き方。私共甘木の親先生の様な事は出来ませんけれども、例えばお風呂に入って、私が湯桶半分と云う風な頂き方はです有難いです矢張り。
ガブガブ使うよりかね、何にもならん時湯桶半分でお風呂を済ますと云う訳じゃないですよ。お風呂の中に湯桶を付ける時にちょっと心を配って、半分しか汲まんというだけの事です。そればしよると有難うなって来るです。本当に御物と云う事が分かって来る様になるです。御事柄と言う様な事でも同じ事。そこでそれはもうーとても本当に受けられない様な事であってもです。それが神様が私に求め給う修行であるとするならば、私に求めて下さるとするならば、その事柄を本気でもう心では辛いけれどもです。
それを受ける稽古をしているうちにです。成程神様の御働きであるなぁ。御事柄であるなぁ。これが神様の御心であったなぁと云う事が、体得出来る様になるです。本気でその事にならせて頂いたら、言うならばそれこそ水が流れる様にスムーズに修行をさして頂く事が出来ます。今の合楽では、表行が出来ません。水を掛かる事も出来なければ、断食する様な修行も致しません。そこでせめてです。
神様が私の上に下さる、其の事を合掌して受けて郁子とをもって、努力さして頂く様な行を本気でさして頂いたら、神の大恩が解って来るようになり、神のおかげが分かって来る様になり、間違いなく子孫繁盛、家繁盛。いわゆる子孫も続き、身代も出来言うならば、貧乏のない世界。争いのない世界。病気のない世界。所謂人間と身代と達者とがたろうたおかげを身に付けて行く事が出来ると思います。
どうぞ。